miwasan0216’s blog

愛する子供たちのために、理不尽さと闘う父。誰もが幸福な世の中になるために。

面会交流の重要性

 法律書籍を読むと、「子の福祉」、「子の最善の利益」を考えた時に、別居親との面会交流を継続していくことが大切だとの趣旨の内容は、どの書籍にも書いてある。それは、子供の自己肯定感を育むためにも、「父」と「母」の双方から愛情を受けているとの事実が必要だからである。しかしながら、面会交流調停などで、別居親が月に複数日の面会交流を求めても、調停委員や裁判官は、月1回2時間を相場と考えていて、別居親の主張を退けることが多い。そこには、「子供の福祉」や「子供の最善の利益」との観点は、何ら考慮されていない。

 

 そもそも、毎日会えて、楽しく過ごせていたのに、突然、子供を連れ去られたり、妻や子供が実家から帰って来ないとなると、別居親は、ほぼ子供に会えない状況が続くのだ。私の実体験においても、子供たちと会うことに半年間もかかった。異常である。子供の視点で考えたら、子供は別居親と会いたいし、面会交流日は、最低でも、週1日~複数日を設けるべきである。

 

 そのようなことを考慮せずに、紛争処理件数のノルマを減らすことしか考えていない調停委員や裁判官には、なぜ相場が月1回2時間になっているのか、その理由を確認することすらしないであろう。要するに、人の人生の方向性を決定付ける立場でありながら、なんらその責任と職務を果たしていないのが実状である。これは経験した者でなければわからない。

 

 では、「相場が月1回2時間」となっている理由とは何か?それは、同居親の嫌がらせに他ならない。同居親は、子供を道具として扱い、囲い込む習性がある。そして、子供たちが別居親になついていることもわかっている。だから、子供たちと別居親が会える回数を意図的に減らし、子供たちの記憶から、別居親の存在を消して、同居親の支配下に置こうとしているのである。そこには、利益優先の悪徳弁護士や義父母が教唆していることに間違いない。

 

 私の実体験をお伝えすると、妻から一方的な離婚調停を申し立てられた後、日を待たずに、子の監護者指定の調停を申し立てた。はじめ、こちらが面会交流を申し入れたが、子供と面会したいのなら、カネを払えと言う。まるで、ヤクザ顔負けの言い分である。しかし、私の弁護士が監護者指定の調停を申し立てたこと、子供の福祉について厳しく追及したところ、態度を急変したのである。つまり、自分らが不利にならないように、アリバイ作りのためにそうしたに過ぎない。その後も、調停外で一方的な誓約を提示してきたり、調停中の婚姻費用についても、係争中で何一つ疑惑が解消されていないのに、金銭の要求をするなど、呆れてしまうほど、非常識な行動ばかりとっている。

 

 このように、どれだけ、同居親が面会交流に対して、嫌がらせをしたとしても、別居親との関係を断絶することはできない。私は、はじめの面会交流こそ、子供たちは素っ気ない態度で、同居親や義父母に言い含められている様子であったが、月1回の数時間程度の面会交流を繰り返す中で、私も協力してくる私の家族や子供の従弟妹も、子供たちと全力で楽しんで仲良くしてくれる。そうすると、子供たちは本音を言い始める。そして、特に6歳の長男は、私が普段から一緒にいない状況に疑問を抱き、すべてのことを知っているが故に、私と会うと目を真っ赤にさせている。私が、パパのところにおいでと呼び掛けると、飛んで来る。そして、私が「いろいろ心配かけてごめんね。長男のせいではないからね。何かあったら、パパが全力で守るし、応援するから、心配するな」と伝えると、泣くのを堪えて、目を真っ赤にしているのだ。これが、子供たちの本心である。

 

 いま面会交流で子供たちに会えない方もたくさんいると聞いている。しかし、子供たちは、別居親の存在を待っている。ずっと待っている。だから、たとえ裁判所が腐敗していたとしても、同居親から嫌がらせを受け、マウントをとられたとしても、調停を起こして、面会交流を求めてもらいたい。判例では、離婚後、親権をとった親が、片方の親に子供との面会交流を1年間、拒否した結果、親権者変更の判決を言い渡された事例もある。また、別居親が病気になり、余命宣告を受け、一目子供に会いたいと思い、知り合いの国会議員を介して、会えた話を別居親の子供から直接聞いたこともある。子供からしたら、「驚いたけど、本当にうれしかった」と会って、互いに泣いたそうだ。

 

 道は険しくても、別居親が行動しなければ、何も始まらない。だから、どれだけ、理不尽なことをされても、子供たちのために負けないでほしい。私もこれまでに言い尽くせないほど理不尽なことをされてきた。だけど、同じ境遇で苦しんでいる人はたくさんいる。だからこそ、負けてはいられない。必ず勝つと決めている。

 

 誰もが幸福な世の中になるために。