miwasan0216’s blog

愛する子供たちのために、理不尽さと闘う父。誰もが幸福な世の中になるために。

国民の期待を裏切り続ける裁判所、組織改革を望む。

 神戸家庭裁判所による「神戸連続児童殺傷事件」の記録が、最高裁の内規に基づいて特別保存されることなく、廃棄されたことが発覚して以降、全国各地で重要書類の廃棄が発覚した。これに対して、当初、最高裁は、以下のように無責任な回答を述べていた。

 

  1. 見解を述べることは差し控えさせて頂きます。
  2. 最高裁として問題があったとは考えておりません。
  3. 仮に当時の職員に聴取したとしても、あくまで個人の記憶や見解の範囲にとどまるものと考えています。

 

 しかし、その後、当初の方針を一変した。

 

  1. 「特別保存」の運用などを調査・検証する必要があるためとしていて、少年事件以外の民事裁判などの記録も廃棄を当面、停止する。
  2. 最高裁は「特別保存」に関する対応や運用が適切だったか外部の有識者から意見を聞いて検証する。

 

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 そして、今回、神戸新聞最高裁の無責任さを追及する記事を報道した。ジャーナリストの江川紹子氏の意見を取り上げている。

 

  1. 無関心、無責任、無秩序。国民の期待を裏切る裁判所の感覚があぶり出された。
  2. 裁判所が調査も説明もしないことにはがくぜんとした。記録に対する無関心や無責任、ルール(内規)を守らない無秩序など、『無』が際立った。
  3. 国民が無意識に裁判所へ期待していた、あるだろうと思っていたものが、(記録だけでなく)こんなにもない。
  4. 経緯を明らかにし、再発防止に生かすのが一番大事ではないか。
  5. 神戸新聞の報道が突破口になり、少年法が変わる契機にもなった事件の記録があちこちで捨てられていたと明らかになった。実は少年事件に限ったことではない。刑事事件でも、戦後初の違憲立法審査になった尊属殺人事件の記録が廃棄されていたし、憲法判断が問われた重大な民事事件記録も大量廃棄されていた。記録は国民共有の財産であるという発想が欠けている。国民の期待を裏切る裁判所の感覚があぶり出された。
  6. 反応は鈍かった。国民からの批判は、最高裁にとって思いもよらないもので、動かざるをえなくなったのだと思う。成人の裁判は、憲法の定めで民事も刑事も公開の法廷で開かれ、記録の保存・閲覧はその補完関係にあるが、少年審判は非公開。憲法の制約を考えることなく、裁判所の裁量で廃棄してよいという感覚だったのだろう。
  7. 事件記録は最初、裁くための実務書類として作られるが、結論が出たり、刑の執行が終わったりすれば、歴史文書になる。すぐに公開するのは無理でも、長期保存によって、当事者がいなくなった時代になれば、プライバシーのハードルは変わってくるはずだ。また、たとえ非公開でも、記録があるだけで陰謀論が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するのを防ぐ『重し』の効果が期待できる。
  8. 保存の仕組みとなる法律を作るには立法府(国会)、場所を確保する建設予算を取るには行政府(内閣)が協力しなければならず、三権分立は理由にならない。そもそも事件記録を廃棄するか保存するかというのは、司法判断ではなく、行政行為だ。
  9. 記録がなくなっても、明日の生活には影響しない。だが事件記録は、社会が過去に起こった悲劇に対し、素通りせず、一つ一つ対処してきた大事な歴史的証拠だ。これがなくなると、日本の歴史はいくらでも書き換えられ、ゆがめられる。自分が今生きている時代だけでなく、未来の人の目を想像しなくてはならない。

www.kobe-np.co.jp

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 これらの一連の最高裁の対応を見ても、江川氏が言及しているように、裁判所の「無関心、無責任、無秩序。国民の期待を裏切る感覚」、「国民が無意識に裁判所へ期待していた、あるだろうと思っていたものが、(記録だけでなく)こんなにもない」など、裁判を実体験してきた人でないとわからない裁判所の体質が露わになった。私も裁判を実体験した身として、裁判官が国民感情からかけ離れた独善的体質を持ち合わせていることは、これまで述べてきた通りである。これは、私だけが感じていることではない。“裁判所の被害者”になっている人も多いのが実態だ。

 

 これを機に、最高裁には、裁判所や裁判官の体質を改める努力をお願いしたい。組織を改革することは一朝一夕にはいかない。しかし、このままでは国民の信頼は到底得られないし、裁判所の存在意義もない。また、三権分立と言えども、立法府(国会)や行政府(内閣)が、裁判所の改革に着手すべきである。厳しい言い方だが、裁判所が公正・中立な立場ではなく、独善的体質を持っているのは、裁判所自体の驕りであり、慢心である。それを変えることは容易ではないが、国民の声に真摯に耳を傾けることではないだろうか。