miwasan0216’s blog

愛する子供たちのために、理不尽さと闘う父。誰もが幸福な世の中になるために。

【先人に学ぶ】絶望の淵からいかに這い上がるか

 「子の連れ去り」や「子の留置」、配偶者が子を連れて、実家に帰ったまま戻って来ないなど、絶望の淵に立たされる思いになる。これは何度も言っているが、経験をした人でなければ、わからない苦悩である。

 

 このブログを書いている私も、私自身が妻や義両親のこと原因で、適応障害を発症し、療養中であるにも関わらず、一方的に、調停や裁判を起こされ、私には「法定事由がない」のに、裁判官や調停委員も、公平・公正に物事を判断しない。これらは、私の人生の中で、最も耐え難く、子供たちの将来を考えると不安でいっぱいであった。

 

 先月からSNSをやり始めて、初めて、同じ悩みを抱えるパパ・ママが、たくさんいることを知った。身勝手に、「子の連れ去り」や「子の留置」をしている同居親は、いずれ厳しい天罰が下る。その天罰を見届けてあげるには、私たち自身が、まず心身共に、健康を回復することに努めていく必要がある。

 

 ここでは、少しでも前向きになれる先人たちの言葉を紹介したい。個人的な趣味も入っていて恐縮ですが、私は、アランやヒルティの「幸福論」が好きなので、その言葉を紹介させていただきたい。


アラン『幸福論』

 

①幸福になるのは、いつだって難しいことなのだ。多くの出来事を乗り越えねばならない。大勢の敵と戦わねばならない。負けることだってある。乗り越えることのできない出来事やストア派の弟子たちの手に負えない不幸が絶対ある。しかし、力いっぱい戦った後でなければ負けたと言うな。

 

②困難に陥った時、切り抜ける手だてになるのは自分の意志だけだ

 

最大の不幸とは物事を悪く考えることではないか。人が想像する不幸は、決してあるがままの不幸ではないということを知るだけでも、すでにかなりの成功である。

 

④他人に対しても自分に対しても親切であること。人の生きるのを助け、自分自身の生きるのを助けること。これこそ真の思いやりである。

 

⑤ほんとうの苦痛が訪れたら、その時自分のなすべきことはただ一つしかない。人間らしく振舞い、強く生きること。おのが意思と生命とを一つにして、不幸と敢然とたたかうことだ。ちょうど戦士が敵と相対するのと同じように。

 

人は自分の苦しみをも想像する。そうすることによって、苦しみははるかに大きなものとなってしまう。なぜなら、現実の悪はしばしば、意気の喪失によって麻痺しているというのに、想像力は全力でもってわれわれを責めさいなむからだ。行動によって、疲労によって、想像力は死ぬ。

 

絶望とは、希望とともに、雲の形が変わるも早く、人から人へと伝染して行くものだ。ぼくが信頼すれば、彼は誠実となる。ぼくが非難するなら、彼はぼくのものを盗みとるようになる。彼らはみんな、ぼくがやった通りの貨幣で返ってくるのだ。

 

不安になやまされている時は、理屈でもって考えようとするのはやめたまえ。なぜなら、自分の理屈で自分自身が責め立てられることになるから。それはむしろ、体操をやってみたまえ。その効果におどろくだろう。

 

我々は現在だけを耐え忍べばよい。過去にも未来にも苦しむ必要はない。過去はもう存在しないし、未来はまだ存在していないのだから。

 

悲観主義(ペシミズム)は気分によるものであり、楽観主義(オプティミズム)は意志によるものである。気分にまかせて生きている人はみんな、悲しみにとらわれる。

 


カール・ヒルティ『幸福論』
    
苦しみは人間を強くするか、それとも打ち砕くかである。その人が自分のうちに持っている素質に応じて、そのどちらかになる。

 

およそ苦しみなしに真に力づよい生活を送ることは、まったく不可能である。親愛なる読者よ、そうした力強い生活か、それとも希望のない凡庸さか、どちらかを選びたまえ。

 

悩みのみが正しい意味で、人を謙遜にする。

 

高慢は、つねにかなりの愚かさに結びついている。高慢はつねに破滅の一歩手前で現れる。高慢になる人は、すでに勝負に負けているのである。

 

悪人が受ける主な罰は、彼ら悪人が善心に立ち還った瞬間に、よりよくなろうと願っても、もはや善の道に還ることが出来ないという点にある。

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