miwasan0216’s blog

愛する子供たちのために、理不尽さと闘う父。誰もが幸福な世の中になるために。

連れ去り親には「実家依存症」が圧倒的多い

 近年、夫婦の離婚問題の原因に、「配偶者の実家依存症」が増加傾向にあると言われている。ネットでは、Yahoo!知恵袋の投稿などをみると、2007年ぐらいから「実家依存症」というワードが出始めているが、教育評論家の尾木直樹氏が2015年に「親子共依存」という著書を発刊して以来、「実家依存症」という問題が、世の中で少しずつ認識され始めた。

 

 かく言う私自身も、妻の「実家依存症」に悩んできた。面白いことに、結婚当初に教育評論家の尾木直樹氏が発刊した「親子共依存」という著書を購入していた。どうやら、私は、妻の「実家依存症」には結婚当初から悩んでいたようだ(笑)


 それから、月日が流れ、頭の片隅には、妻の「実家依存症」が残っていたものの、その著書は職場デスクの奥深くに置いたままになっていた。自宅へ持ち帰ると、喧嘩の火種になると思ったからである。そして、昨年、妻が子供らも一緒に実家から帰って来なくなってから、尾木直樹氏の「親子共依存」を、過去に購入したことを忘れたまま、再び、購入してしまったのだ(笑)それだけ、悩んでいたのであろう。

 

 さて、「実家依存症」とは、簡単に言えば、親子が「親離れ子離れができていない」状況を指し、互いに依存し合っているが故に、夫婦関係よりも親子関係を優先し、夫婦関係の破綻を招くことである。つまり、親も子も、精神的に自立できないことが多い。これは、夫にも妻にも言えることだ。

 

 先に結論を申し上げるが、これは「依存症」であり、病気である。だが、残念なことに、アルコール依存症ギャンブル依存症と同様で、本人たちが気づかない限り、治療の仕様もないのである。手の施しようがない。反対に、本人たちが気づかず、治療もできない状況であれば、選択肢は2つしかない。1つは、本人たちが気づくまで待つ。これは相当な忍耐力が必要だ。2つは、離婚して、関係を清算することだ。「実家依存症」の人間はタチが悪いので、関係を断ち切りたいと思う人も多いだろうが、子供がいれば、そうはいかない。子供のためとの一点で、最低限の関係を保つ必要はあるだろう。

 

 「実家依存症」でタチが悪いのは、夫婦喧嘩の裏で、親が糸を引いていることが多いということだ。特に、私のように、調停や裁判などになると、当事者である妻は紛争状態とは思えないほどケロッとしていて、何も考えていない。一方で、主張書面には、明らかに義母が加担していることが、よくわかる内容が出てくる。義母が表に出てくればいいのだが、「自分は知りません」、「関係ありません」とシラを切る。そして、裏では、娘を支配下に置き、言いなりにさせている。極めて悪質であり、毒親の典型であると言える。こういった人間は、何らかのパーソナリティ障害を抱えていることも多いようだ。

 

 いずれにしても、夫婦関係が修復するか否かは別にして、「実家依存症」は、子供たちにも連鎖することを忘れてはならない。だから、今、別居親で、子供たちに会えない状況が続いている方も、「子供たちを救い出す」という1点は忘れてはいけない。だからと言って、犯罪行為に手を染める訳にもいかないので、自身の悲哀を乗り越えて、時が満ちるのを待つしかない。子供たちがいつ自分のもとに来ても、安心して迎え入れることができるように、今から準備を進めていきたい。

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佐藤優著「獄中記」を読んで

 佐藤優氏は、ご存知の方も多いと思うが、在ロシア日本国大使館で勤務する元外交官であり、元外務省国際情報局主任分析官として、世界各国で人脈を築き、日本の国益のために働いてきた人物である。特に、ロシア問題においては、2000年までに、北方領土返還と共に、日ロ平和条約の締結に向けて尽力してきたが、残念ながら、現在まで条約締結に至っていない。

 

 その後、2002年5月14日、東京地検特捜部による鈴木宗男事件に絡む背任容疑および偽計業務妨害容疑で逮捕された。これにより、起訴されるまで512日間も東京拘置所で勾留され、最終的に、懲役2年6ヵ月(執行猶予4年)の有罪判決を受け、外務省を失職したが、懲戒免職や諭旨免職ではなく「失職」となるケースは、逮捕された公務員の退職理由として異例と言われている。

 

 後に、佐藤優氏が出版した著書「国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて」には、東京地検特捜部の「結論ありき」の国策捜査を暴き、大きな反響を呼んだ。

 

 前置きが長くなったが、佐藤優氏の512日間に及ぶ勾留生活は、誰が考えても地獄の生活そのものであったであろう。しかし、この時の様子を日記調に書き綴った「獄中記」には、その状況に嘆く記述はない。佐藤優氏の生き様は、現在の私たちの状況に通じるものがあると思い、紹介したい。相手を憎む気持ちは強いが、時が満ちるのも大事な視点だと思う。

 

(P118)

キリスト教神学では、「何事にも時がある。時が満ちて初めて、次に進むことができる。」という時間概念があります。

 

今はじたばたしても仕方ありません。「時が満ちる」のを待って、ひたすら潜在力を付けることが賢明と考えています。

 

他人を憎んだり、人間としての優しさを忘れ、自己中心的になるのではなく、あくまでも人間として崩れずに、「時が満ちる」のを待ちます。

 

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【先人に学ぶ】絶望の淵からいかに這い上がるか

 「子の連れ去り」や「子の留置」、配偶者が子を連れて、実家に帰ったまま戻って来ないなど、絶望の淵に立たされる思いになる。これは何度も言っているが、経験をした人でなければ、わからない苦悩である。

 

 このブログを書いている私も、私自身が妻や義両親のこと原因で、適応障害を発症し、療養中であるにも関わらず、一方的に、調停や裁判を起こされ、私には「法定事由がない」のに、裁判官や調停委員も、公平・公正に物事を判断しない。これらは、私の人生の中で、最も耐え難く、子供たちの将来を考えると不安でいっぱいであった。

 

 先月からSNSをやり始めて、初めて、同じ悩みを抱えるパパ・ママが、たくさんいることを知った。身勝手に、「子の連れ去り」や「子の留置」をしている同居親は、いずれ厳しい天罰が下る。その天罰を見届けてあげるには、私たち自身が、まず心身共に、健康を回復することに努めていく必要がある。

 

 ここでは、少しでも前向きになれる先人たちの言葉を紹介したい。個人的な趣味も入っていて恐縮ですが、私は、アランやヒルティの「幸福論」が好きなので、その言葉を紹介させていただきたい。


アラン『幸福論』

 

①幸福になるのは、いつだって難しいことなのだ。多くの出来事を乗り越えねばならない。大勢の敵と戦わねばならない。負けることだってある。乗り越えることのできない出来事やストア派の弟子たちの手に負えない不幸が絶対ある。しかし、力いっぱい戦った後でなければ負けたと言うな。

 

②困難に陥った時、切り抜ける手だてになるのは自分の意志だけだ

 

最大の不幸とは物事を悪く考えることではないか。人が想像する不幸は、決してあるがままの不幸ではないということを知るだけでも、すでにかなりの成功である。

 

④他人に対しても自分に対しても親切であること。人の生きるのを助け、自分自身の生きるのを助けること。これこそ真の思いやりである。

 

⑤ほんとうの苦痛が訪れたら、その時自分のなすべきことはただ一つしかない。人間らしく振舞い、強く生きること。おのが意思と生命とを一つにして、不幸と敢然とたたかうことだ。ちょうど戦士が敵と相対するのと同じように。

 

人は自分の苦しみをも想像する。そうすることによって、苦しみははるかに大きなものとなってしまう。なぜなら、現実の悪はしばしば、意気の喪失によって麻痺しているというのに、想像力は全力でもってわれわれを責めさいなむからだ。行動によって、疲労によって、想像力は死ぬ。

 

絶望とは、希望とともに、雲の形が変わるも早く、人から人へと伝染して行くものだ。ぼくが信頼すれば、彼は誠実となる。ぼくが非難するなら、彼はぼくのものを盗みとるようになる。彼らはみんな、ぼくがやった通りの貨幣で返ってくるのだ。

 

不安になやまされている時は、理屈でもって考えようとするのはやめたまえ。なぜなら、自分の理屈で自分自身が責め立てられることになるから。それはむしろ、体操をやってみたまえ。その効果におどろくだろう。

 

我々は現在だけを耐え忍べばよい。過去にも未来にも苦しむ必要はない。過去はもう存在しないし、未来はまだ存在していないのだから。

 

悲観主義(ペシミズム)は気分によるものであり、楽観主義(オプティミズム)は意志によるものである。気分にまかせて生きている人はみんな、悲しみにとらわれる。

 


カール・ヒルティ『幸福論』
    
苦しみは人間を強くするか、それとも打ち砕くかである。その人が自分のうちに持っている素質に応じて、そのどちらかになる。

 

およそ苦しみなしに真に力づよい生活を送ることは、まったく不可能である。親愛なる読者よ、そうした力強い生活か、それとも希望のない凡庸さか、どちらかを選びたまえ。

 

悩みのみが正しい意味で、人を謙遜にする。

 

高慢は、つねにかなりの愚かさに結びついている。高慢はつねに破滅の一歩手前で現れる。高慢になる人は、すでに勝負に負けているのである。

 

悪人が受ける主な罰は、彼ら悪人が善心に立ち還った瞬間に、よりよくなろうと願っても、もはや善の道に還ることが出来ないという点にある。

todays-list.com

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子の連れ去り被害者は「ママ」も増加中!

 先日、あるフォロワーさんのツイートを見たところ、衝撃的な事実を目にした。子の連れ去り被害者に「ママ」も多いということだ。この実態はなんとか解消しなければならない重大な問題だと思った。

agora-web.jp

 なぜ、「子の連れ去り」という事態が発生するのか。個々の家族で、複雑な問題や課題を抱えているので、多岐にわたることは論を俟たないだろう。しかし、1つだけ、共通していることは、現在の「単独親権制度」が、「天下の悪法」であるということだ。

 

 日本が現在もなお、「単独親権制度」を採用していることによって、それを悪用する人間が増えているということだ。特に、子供を人質にして、カネを養育費や婚姻費用を要求する同居親。この費用の10~20%は、それを教唆した悪徳弁護士の懐に不労所得として入ることになる。子供が小さければ小さいほど、養育費を支払い続ける年数は長くなる。そうなれば、より一層、悪徳弁護士の利益は増えることになる。

 

 私は、このような悪徳弁護士は絶対に許さない。そして、悪徳弁護士に教唆され、カネに狂った同居親も許さない。また、裁判官、調査官、調停委員についても、そういった事実を見抜けず、判断した人間は、悪徳弁護士やカネに狂った同居親と同罪である。

 

 「絶対に許さない」と言っても、私は犯罪に手を染めるつもりはない。これらの人間が最期を終えるまで、どういう生き様を送るのか、見届けていきたい。絶対に良い生き方はしないからだ。それは、すでに多くの歴史上の先人たちが教えてくれている。そして、その実態を世の中に問いていきたい。

 

 早期に「原則共同親権」を実現すると共に、「子の連れ去り」は実行犯および教唆犯も厳しい刑事罰に問う制度が必要である。特に、教唆犯においては、悪徳弁護士である場合が多いと思うが、その場合は、「弁護士資格はく奪」すべきである。

 

 なお、今後は、「子の連れ去り被害者」はパパだけでなく、ママもいることを認識し、子を連れ去られたママたちのことも、私は応援していきたい。

 

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頑張る「パパ」を守る社会へ!

 現代の日本社会は、パパも家事・育児に関わるのが当たり前と思っているママは多いだろう。それは、女性の社会進出が進み、パパは仕事、ママは家庭という時代ではなくなっている。パパとママが共に支え合っていかなければ、家庭生活が営めない社会になっている。それはそれで、男女共に負担が大きく大変なことであるけども、「平等」という観点から見れば、日本は健全な社会なのかもしれない。

 

 しかし、女性に聞いてみたい。女性の産後うつと同じ割合で、男性も産後うつになる実態はご存知だろうか。男性でも、10人に1人が産後うつを発症しているのだ。

www.nhk.or.jp

 人口統計から、20歳から45歳までの人数を調べたところ、約2000万人。すると、約200万人の男性が、産後うつを発症する可能性があることがわかる。これを多いと見るか、少ないと見るか。単純に、200万人の大都市圏である、東京・横浜・大阪・札幌の住民全員がうつ病になることと同じであるから、多いと見るべきだろう。

 

 この背景には、家庭と仕事の両立、職場での子育てに関する理解がないことがあげられるだろう。そして、頑張るパパほど、真面目なパパが多い。不貞行為もない、虐待もない、家庭内暴力もない、家族のために一生懸命に働いているパパばかりだ。働くママから見れば、「私も同じだから」と思うかもしれない。しかし、中小企業で働くパパほど、厚生労働省が、「男性の育児休暇、育児休業の推進を!」と叫んだところで、中小企業の、特に社長がワンマン経営をしているような会社では、「男が子育てをするとは何事か!子育ては女性がするものだ!」と、会社と家庭の間で板挟みにあっている男性も多い。可哀想でならない。

 

 だからこそ、もっともっと、頑張る「パパ」を守る社会になってほしい。会社も子育て世代の男性には、配慮と心配りをしてあげてほしい。そして、ママは、パパに優しくしてあげてほしい。それだけで、男性も救われる。

 

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「連れ去り親」や「同居親」に伝えたい!

 突然「子を連れ去った親」、そして、単独親権制度により親権を獲得した「同居親」に対して、はっきり伝えたいことがある。当事者らに正当事由(DVや虐待行為が認められた場合)がない限り、片親を否定するという行動をしてまで自分中心の考えを貫くことは、決して許されることではない。その行動や心は、戦争に匹敵する悪行であり、周囲も絶対に容認すべきではない。

 

 「戦争と平和」を執筆したロシアの文豪トルストイは、「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない。他人の幸福の中にこそ、自分の幸福もあるのだ」との言葉を残している。これは、本年、8月6日に広島市で開催された「平和記念式典」において、松井一実広島市長が読み上げた平和宣言文の中でも取り上げられている。

www3.nhk.or.jp

 

 そもそも、突然、子供を連れ去るような親や、一方的に離婚調停や離婚裁判を起こすような同居親には、共感性が乏しく、他人の心情を理解する能力が著しく欠けているものと思われる。しかし、敢えて言わせてもらえば、これらの親が幸福な人生を送ることはない。絶対にあり得ない。

 

 例えば、過去に自身の不貞行為により、いわゆる「略奪婚」をした芸能人はたくさんいる。しかし、その後、その芸能人は、幸福な人生を送れているだろうか?答えは「NO」である。ほとんどが離婚している。理由は明確である。「前妻や子供ら」の不幸の上に築いた「自らの幸福」だからだ。自分が犯した悪い行いは、すべて自分に返って来るのである。当然と言えば当然である。

 

 子供を連れ去られた私たち片親にとっては、毎日、悔しい思い、悲しい思いでいっぱいである。苦悩の極限状態にある時、「最悪の事態」が脳裏によぎることもあるだろう。しかし、その時は、ヒト呼吸置いてほしい。そして、文豪トルストイの言葉「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない。他人の幸福の中にこそ、自分の幸福もあるのだ」を思い出してほしい。相手は、私たちが黙っていても、不幸の人生に転落していくのである。

earth-words.org

 

 反対に、「連れ去り親」や「同居親」の中で、このトルストイの言葉で我に返って反省する人がいるならば、是非、別居親との面会交流を積極的に進めてほしい。自分の身勝手な感情に振り回されるのは、もう終わりにしよう。子供たちのことをど真ん中に、子供たちの幸福を第一に考えて、別居親との交流を絶やさないでいただきたい。

 

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私の精神疾患、ほぼ寛解状態に!

 昨年7月に、妻や義父母の理不尽な言動や行動が原因で、適応障害を発症した。あれから1年ちょっと経過し、体調も落ち着き、ちょっとしたことで体調を崩すこともなくなった。そして、診察もカウセリングも月1回となり、ついに先日医者から、「ほぼ寛解状態です。凄くいい感じで回復されてますね」と言われ、私以上に、とても喜んでいただいた。あと半年間、問題なければ、「完全寛解と言っていいでしょう」と言われた。

 

 まずは、この1年間、私を支えてくださった多くの方に対して、この場をお借りして、感謝を申し上げたい。戦いはまだ続いているが、この1年間、本当に苦しかった。弁護士に受任依頼はしたが、私自身も、判例法律書籍を通して、離婚事件に関する考え方を一生懸命、勉強し、打開策を考えて、主張書面を百数十ページと書き続け、弁護士に添削していただいた。適応障害」という病気を抱えながらの戦いは、心身共に辛いことが多かった。

 

 そして、現在の傲慢で独善的な裁判官や調停委員には、残念ながら、「結論ありき」で、こちらの話が通じなくて、本当に悔しい思いしか残らなかったが、子供たちが大人になったら、全部資料を見せるために、ファイリングをした。裁判所がわからなくても、子供たちは理解してくれると確信しているし、堂々と父親の戦いを話せると思っている。

 

 また、ある調停担当の女性裁判官に、「本件には関係ない」と私の主張をすべて切り捨てられた際、私は裁判官に対して、1つだけ質問した。「1つだけ聞きたいことがあります。私は、これだけ金銭的な損害を受けた被害者です。もし、裁判官が私の立場であったならば、妻の行為は、法律的に許されても、人間として、大人として、許される行為ですか?」と尋ねたところ、裁判官から返答はなかった。それは「答えないという姿勢」ではなく、「返答に窮していた状態」であった。つまり、この裁判官は「妻の性分が悪い」ことに気づいていたものの諭すことはできず、世の男性も同じだから、私にも同じ対応を求めてきたに過ぎない。個々の状況なんて、はじめから考慮していないのである。裁判官失格である。

 

 ともあれ、戦いはまだ続いている。私も子供たちの将来のためにも、白旗をあげるつもりは一切ない。そして、私もまだ戦いは続いているものの、同じ境遇で悩んでいる方がたくさんいることを知った以上、その方々が一歩でも二歩でも前進できるよう、一緒に悩み、一緒に前に進みたいと思っている。そう思うのは、私も同じ経験をして、苦しんできたからである。この苦しみは経験したものでなければわからない。机上で各論にこだわる憲法学者社会起業家、弁護士や議員には、理解できるわけがない。私は、自分が苦しんできたからこそ、その苦しみがわかるし、苦しんでいる人の力になりたいと思っている。苦しんでいる人を放置しておくことはできない。

 

 そして、何よりも共同親権の早期実現を国会議員へ訴え、世論の意識も上げていきたい。

 

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瀬木比呂志著「絶望の裁判所」を読んで

 誰もが「裁判を経験したいか?」と問われたら、「NO」と答えるだろう。しかし、「裁判所はどんなところ?」と問われたら、「紛争を公正・公平に判断し、正義を実現するところ」と答える人が多いだろう。残念ながら、裁判を経験したことがある方はすでにわかっていると思うが、「NO」である。


 私自身、人生で初めて「裁判」を経験し、独善的な考えの持ち主である裁判官に接し、「裁判所には正義はない」と感じていた時に、たまたま見つけた新書である。これは、33年間に渡り、裁判官を務めた瀬木比呂志氏が執筆し、裁判所の暗部を告白した書籍である。「なるほど」と頷ける内容ばかりである。現在、裁判で係争中の方、すでに終結したが、モヤモヤとした疑問や不満が残っている方は、是非とも一読いただきたい。裁判所の真実がおわかりになるだろう。

 

以下、「絶望の裁判所」から抜粋する。

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この門をくぐるものは、一切の希望を捨てよ。(ダンテ『神曲』地獄篇第三歌より)

 

②裁判の目的とは一体何だろうか? 私は、一言でいえば、「大きな正義」と「ささやかな正義」の双方を実現することではないかと考える。 しかし、日本の裁判所では、「ささやかな正義」はしばしば踏みにじられるし、裁判所が、行政や立法等の権力や大企業等の社会的な強者から国民、市民を守り、基本的人権の擁護と充実、人々の自由の実現に努める「大きな正義」については、きわめて不十分にしか実現されていない。

 

③一般市民である当事者は、多くの裁判官にとって、訴訟記録やみずからの訴訟手控えの片隅に記されているただの「記号」にすぎない。あなたの喜びや悲しみはもちろん、あなたにとって切実なものであるあなたの運命も、本当をいえば、彼らにとっては、どうでもいいことなのである。日本の裁判所、裁判官の関心は、端的にいえば、「事件処理」ということに尽きている。 とにかく、早く、そつなく、「事件」を「処理」しさえすればそれでよいのだ。

 

日本の裁判所は、大局的にみれば、「国民、市民支配のための道具、装置」なのであり、また、そうした道具、装置としてみれば、きわめてよくできているのだ。


⑤企業であれば、上層部があまりに腐敗すれば業績に響くから、一定の自浄作用がはたらく。 ところが、官僚組織には自浄作用が期待できず、劣化、腐敗はとどまるところを知らないということになりやすい。 だからこそ、裁判のような、国民、市民の権利に直接に関わる機関については、こうした組織の問題をよく監視しておかなければならないのである。 また、だからこそ、裁判所の官僚組織からの脱却、人事の客観化と透明化、そして法曹一元制度への移行が必要なのである。


⑥司法、裁判所・裁判官制度のトータルなあり方が、根本的、抜本的に変わっていかなければ、日本の裁判は、本当の意味において良くはならない。 つまり、国民、市民のための裁判、当事者のことを第一に考える裁判にならないし、三権分立の要としての行政や立法を適切にチェックする機能も果たすことができない。 少なくとも、そのことには間違いがないと考える。

 

⑦悪い法理論は、最初に結論を決めて、ただそれを正当化するために構築されていることが多い。 いわゆる「初めに結論ありき」の議論なのだが、法理論については、難解な用語を用い、かつ巧妙に組み立てられていることから、法律の素人である一般市民を欺くためには結構効果的なのだ。 そのような法理論の欠陥を見抜くには、それを正確かつ簡潔に要約するとともに、日常的な言葉に翻訳してみることが大切である。

 

法律問題に関して果敢な判断を行った裁判官は、おそらく無傷ではいられず、いつどこでどのような報復を受けるかわからない。

 

⑨日本の裁判官の判決は、長くて細かいがわかりにくく、しかも、肝心の重要な争点に関する記述がおざなりであったり、形式論理で木で鼻をくくったように処理されていたりすることが多い。 これは、根本的には、裁判官に真摯に事案をコミットしようという心構えが乏しく、また、当事者のためではなく、上級審にみせるために、あるいは、自己満足のために判決を書いているという側面が大きいことによる。

 

日本の裁判官には、重要な法律問題や新しい法律問題を含む事件において判決、ことに新しい判断を示すことに対する及び腰の姿勢が強く、しかも、この傾向は、近年むしろ強まっている。 効率よく事件を「落とす」ことだけを至上目的とする事なかれ主義の事件処理が目立つようになっている。 弁護士から「裁判官による和解の強要、押しつけの横行」をいう声を聴くことも多い。 

 

訴訟を起こしてみると、ある程度審理が進んだ段階で、裁判官から、強引に、かつ延々と和解の説得を受ける場合がきわめて多い。

 

裁判員制度の目的について「市民の司法参加」がいわれる。 それはもちろん意味のあることだと思うが、より根本的な目的は「刑事裁判制度の改善」であり、ことに「冤罪の防止」であろう。

 

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Tomy先生「悪いことをして幸せになる人はいない」

 この1年間、40年近く生きてきた中で、「これほど理不尽なことはない」というほど、理不尽な経験をしてきた。悔しさ、悲しさ、怒りなど、負の感情を常に抱いていた。それは今も変わらない。負の感情を抑えつけ、自分で感情のコントロールができなくなり、適応障害まで発症した。1年経過し、ようやく症状も落ち着いてきた。

 

 だが、ここ数週間は、理不尽な出来事が相次ぎ、尋常ではなかった。本当はこの場ですべてを吐き出して、世の中にこんなことがあっていいのかと問いかけたいくらいだ。しかし、現在、私は、調停や裁判で係争中の身であるので、詳細を述べることは控えたいが、1つだけ言いたいことがある。それは、「独善的な裁判官」、「形骸化した調停委員制度」は、政治主導で見直すべきである。当事者の痛みを理解しようとしない、彼ら・彼女らに、人を裁く資格はない。

 

 幸いにも、私がこのような状況でも、SNSをはじめ、職場や友人、家族、親族など、いろいろな方から励ましていただいている。1年以上通い続けている心療内科のカウンセラーさんからは、「よく、こんな理不尽なことをされて、冷静でいられますね」と度々言われる。私はどちらかというと、寡黙で、普段から感情を表に出すことはない。だから、そのように見られるのであろうが、「いや、内心では冷静ではないです。いろんな感情が渦巻いています。でも、自分の周りには励ましてくれる人がいる。だから、頑張れる。」と答えている。私にとって、心療内科のカウンセラーさんも励ましてくれる存在の一人で、仕事とはいえ、私の話を聞いて、共感してくれて、的確なアドバイスもくれるありがたい存在である。

 

 このような家庭問題は、経験した者でなければわからない。特に、突然「子の連れ去りや留置」をされ、今までの生活が一変し、配偶者から一方的に離婚調停や離婚裁判をおこされ、理不尽な経験をした者でなければ、わからないことがたくさんある。だからこそ、私自身も苦しい状況だけども、同じ境遇で苦しんでいる方々にも声をかけ、一緒に前に進んでいきたいと思っている。

 

 先日、ツイッターのフォロワー30万人を突破した精神科医のTomy先生の「きょうのひとこと」を聞いた。その中で、「悪いことをして幸せになる人はいない」を見つけ、すかさず聞いてみた。

 

voicy.jp

 

因果応報はある。やったことは返って来る。悪いことをして、成功したように見えても、報われることはない。

生き方は顔に出る。悪いことをして誰にも咎められなくても、「利益が得ている=幸せ」ではない。こういう人は幸せにならない。本人は本人で罰を受ける。

忘れないで嫌な思いをずっと持っていると、悪いことをした人に、自分の気持ちをプレゼントしているようなもの。だから、悪いことをした人はさっさと忘れた方がいい。


 Tomy先生の話を聞きながら、その通りだなと思った。「子の連れ去り問題」も同じ。一見、同居親が別居親から、子供をとり、カネをとり、家裁の調停や審判で、利益を得たように見えても、その同居親が幸せになることはない。本人は本人で罰を受ける。私は相手にどんな罰が出るのか見届けていきたい(怖)

 

 誰もが幸福な世の中になるために。

面会交流の重要性

 法律書籍を読むと、「子の福祉」、「子の最善の利益」を考えた時に、別居親との面会交流を継続していくことが大切だとの趣旨の内容は、どの書籍にも書いてある。それは、子供の自己肯定感を育むためにも、「父」と「母」の双方から愛情を受けているとの事実が必要だからである。しかしながら、面会交流調停などで、別居親が月に複数日の面会交流を求めても、調停委員や裁判官は、月1回2時間を相場と考えていて、別居親の主張を退けることが多い。そこには、「子供の福祉」や「子供の最善の利益」との観点は、何ら考慮されていない。

 

 そもそも、毎日会えて、楽しく過ごせていたのに、突然、子供を連れ去られたり、妻や子供が実家から帰って来ないとなると、別居親は、ほぼ子供に会えない状況が続くのだ。私の実体験においても、子供たちと会うことに半年間もかかった。異常である。子供の視点で考えたら、子供は別居親と会いたいし、面会交流日は、最低でも、週1日~複数日を設けるべきである。

 

 そのようなことを考慮せずに、紛争処理件数のノルマを減らすことしか考えていない調停委員や裁判官には、なぜ相場が月1回2時間になっているのか、その理由を確認することすらしないであろう。要するに、人の人生の方向性を決定付ける立場でありながら、なんらその責任と職務を果たしていないのが実状である。これは経験した者でなければわからない。

 

 では、「相場が月1回2時間」となっている理由とは何か?それは、同居親の嫌がらせに他ならない。同居親は、子供を道具として扱い、囲い込む習性がある。そして、子供たちが別居親になついていることもわかっている。だから、子供たちと別居親が会える回数を意図的に減らし、子供たちの記憶から、別居親の存在を消して、同居親の支配下に置こうとしているのである。そこには、利益優先の悪徳弁護士や義父母が教唆していることに間違いない。

 

 私の実体験をお伝えすると、妻から一方的な離婚調停を申し立てられた後、日を待たずに、子の監護者指定の調停を申し立てた。はじめ、こちらが面会交流を申し入れたが、子供と面会したいのなら、カネを払えと言う。まるで、ヤクザ顔負けの言い分である。しかし、私の弁護士が監護者指定の調停を申し立てたこと、子供の福祉について厳しく追及したところ、態度を急変したのである。つまり、自分らが不利にならないように、アリバイ作りのためにそうしたに過ぎない。その後も、調停外で一方的な誓約を提示してきたり、調停中の婚姻費用についても、係争中で何一つ疑惑が解消されていないのに、金銭の要求をするなど、呆れてしまうほど、非常識な行動ばかりとっている。

 

 このように、どれだけ、同居親が面会交流に対して、嫌がらせをしたとしても、別居親との関係を断絶することはできない。私は、はじめの面会交流こそ、子供たちは素っ気ない態度で、同居親や義父母に言い含められている様子であったが、月1回の数時間程度の面会交流を繰り返す中で、私も協力してくる私の家族や子供の従弟妹も、子供たちと全力で楽しんで仲良くしてくれる。そうすると、子供たちは本音を言い始める。そして、特に6歳の長男は、私が普段から一緒にいない状況に疑問を抱き、すべてのことを知っているが故に、私と会うと目を真っ赤にさせている。私が、パパのところにおいでと呼び掛けると、飛んで来る。そして、私が「いろいろ心配かけてごめんね。長男のせいではないからね。何かあったら、パパが全力で守るし、応援するから、心配するな」と伝えると、泣くのを堪えて、目を真っ赤にしているのだ。これが、子供たちの本心である。

 

 いま面会交流で子供たちに会えない方もたくさんいると聞いている。しかし、子供たちは、別居親の存在を待っている。ずっと待っている。だから、たとえ裁判所が腐敗していたとしても、同居親から嫌がらせを受け、マウントをとられたとしても、調停を起こして、面会交流を求めてもらいたい。判例では、離婚後、親権をとった親が、片方の親に子供との面会交流を1年間、拒否した結果、親権者変更の判決を言い渡された事例もある。また、別居親が病気になり、余命宣告を受け、一目子供に会いたいと思い、知り合いの国会議員を介して、会えた話を別居親の子供から直接聞いたこともある。子供からしたら、「驚いたけど、本当にうれしかった」と会って、互いに泣いたそうだ。

 

 道は険しくても、別居親が行動しなければ、何も始まらない。だから、どれだけ、理不尽なことをされても、子供たちのために負けないでほしい。私もこれまでに言い尽くせないほど理不尽なことをされてきた。だけど、同じ境遇で苦しんでいる人はたくさんいる。だからこそ、負けてはいられない。必ず勝つと決めている。

 

 誰もが幸福な世の中になるために。

司法判断には「民意」の反映が必要だ!

 司法権は、裁判所だけがもっている。 裁判が公平に行われるためには、裁判所や裁判官が、国会や内閣から圧力や干渉を受けないことが必要になると考えている。 これを、司法権の独立」といい、三権分立の1つとしている。国家権力の暴走を防ぐために、戦後、日本は「三権分立」体制を確立し、立法(国会)、行政(内閣)、司法(裁判所)が、互いに権力の行使を監視する役割を果たしている。

 

 しかし、民意がどれだけ反映されているかとの視点で考えた時、裁判所が一番民意が反映されにくい機関で、国民から見ても閉鎖的な場所に映ってだろう。立法は、国政選挙により民意が反映された人物が国会議員に当選する仕組みになっており、行政は、国政選挙において政権を取得した政党の中から選ばれた人物が総理大臣および国務大臣に指名されている。いわば、国民との距離感は比較的近いと考えられる。

 

 それに比べて、司法は、最高裁判所判事の国民審査や裁判員制度(刑事事件のみ)とあるが、国民審査と言われても評価のしようがないという現実もあるし、裁判員制度も刑事事件のみであり、最高裁の統計によると、制度開始の平成21年から令和3年2月末までの候補者名簿(約336万人)のうち、0.02%(10万人程度)しか裁判員の経験をしていないことが判明している。正直、このような状況であれば、司法(裁判所)と国民の距離は、まだまだ遠いと考えて良い。

 

 また、刑事の他に、民事裁判や家事裁判などを経験したことがある人であれば、いかに裁判官が、公正ではなく、かつ、実態にそぐわない判断をしているか、身に染みて感じているだろう。日本国憲法第76条には、「裁判官は、その良心に従い独立して職権を行い、この憲法及び法律のみに拘束される。」とある。しかし、多くの裁判経験者は、「裁判官に良心はあるのか」と疑問を抱いているのが事実である。これは、私自身の経験からしても、自分が思っていた結果が得られなかったというよりも、裁判官自身の言動や姿勢、さらには世間に疎い考えに、幻滅していると考えた方が良い。

 

 いわば、現在の裁判官は、「司法権の独立」を盾に、誰からも圧力や干渉を受けないが故に、「私が正しい」と傲慢で、独善的になり、暴走していると考えられる。ここで公開することは控えるが、ある家庭裁判所のように、本庁には、女性裁判官のみ配属させ、合議体も女性のみで行っているようなところで、いくら男性が無実を主張しても、意図的に有罪にされるのは、極めて心外であり、理不尽であり、不当である。

 

 このような司法(裁判所)の実態を変えていくには、「民意」が必要である。

 

 1つ目には、民意で当選した国会議員が、司法を監視する体制を作ることである。一部では、国会議員で構成される「弾劾裁判所」や「訴追委員会」が形骸化していると指摘されているが、国会議員を中心に、有識者を交えて、体制を検討し、役割を果たすべきであると思う。

 

 2つ目には、以前、主張した内容と重複するが、民事裁判や家事裁判などにおいても、「裁判員制度」を導入することだ。裁判官と言っても人間である以上、言動や姿勢、世間感覚のズレを指摘されても、そのような状況下で生きてきた以上、簡単に考え方は変わらない。だからこそ、裁判員の考えを取り入れて、判断していくことが、より実態に近い判決になっていくと思う。

 

 3つ目には、裁判官は「裁判官の世界」しか知らない人間が多いので、世間感覚にも疎くなる。したがって、裁判官・検察官・弁護士の間で、司法修習後において、交流人事を行い、一人前の裁判官になるには、「検察官」や「弁護士」を複数年経験して、それぞれの立場に立って考えることで、よりよい判断ができるのではないか。さらには、世間感覚を磨く上でも、一般企業へ出向し、社会経験を複数年積むことも必要であろう。

 

 以上、これらのことを国会議員にも働きかけ、司法制度を改革を促し、誰もが公正に判断され、幸福になる世の中になってもらいたいと願うばかりだ。


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巌窟王「待て、しかして希望せよ!」

 子供を連れ去られた、または、配偶者や子供らが義実家から帰って来ない。子供と会うことすらできない。配偶者から一方的に離婚調停や離婚裁判を起こされた。行政機関は助けてくれない。

 

 こうした理不尽な状況下に置かれると、誰もが、絶望感でいっぱいになり、諦めの気持ちが強くなる方が多いと思います。いまこのブログを書いている私も、皆さんと同じ境遇で、何度も心が折れそうになりました。毎朝、起床から出勤するまでの間、苦悩との戦いです。

 

 そんな時に、私は、自分の座右の銘にしているアレクサンドル・デュマが執筆したモンテ・クリスト伯」(日本名:巌窟王の最終場面の一節を思い出します。

 

第7巻117章 

モンテ・クリスト伯爵(エドモン・ダンテス)
この世には、幸福もあり不幸もあり、ただ在るものは、一つの状態と他の状態との比較にすぎないということなのです。きわめて大きな不幸を経験したもののみ、きわめて大きな幸福を感じることができるのです。(中略)人間の叡智はすべて次の言葉に尽きることをお忘れにならずに。待て、しかして希望せよ!

 

 いま私が置かれている状況は、人生最大の不幸であり、試練です。しかし、最大の不幸を感じた者のみが、最大の幸福を手に入れることができると、モンテ・クリスト伯爵は言っている。だから、「待て、しかして希望せよ!」なんだ。つまり、今が最大の不幸であっても、将来は最大の幸福が待っているということだ。どんな困難が降りかかろうとも、希望をもって辛抱強く粘りぬけということだ。

 

 私はこの言葉に随分と救われた。この状況下に置かれたら、誰もが、己の人生を悲観し、絶望し、「死」まで意識するだろう。私もそうでした。しかし、ちょっと立ち止まってみてください。雨の日がずっと続かないのと同じで、今置かれている不幸な状況が、いつまでも続くわけがありません。必ず、今まで以上に幸福な日が来ることは間違いありません。だから、今の現状から、少しでも希望を見いだして、世の中を、日本社会を変えていきましょう。

 

共同親権の早期実現を願いつつ。

 

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義父母に問いたい!娘の幸せとはナニ?

 義父母から、「この若造が何を偉そうなことを言いやがって!」と言われそうですが、私は、敢えて、心を鬼にして言いたいことがある。それは、「結婚して送り出した娘の幸せとは何か、考えたことありますか?」ということだ。

 

 一昔前までは、「結婚したら、実家の敷居をまたぐんじゃない」と、父母は娘に言ったものだ。その意味するところは、単純に「実家に帰って来るな」という意味ではなく、父母が娘に対して、「簡単に離婚して実家に帰って来るんじゃないよ」と、戒めの意味があり、長い目で見て娘夫婦の幸せを願ってのことである。

 

 しかし、今、この現代はどうだろうか?その精神は薄れてきていると思わないだろうか?義父母は娘に対して、「何かあれば、いつでも戻ってきていい」と投げかけている。そして、娘は、躊躇することなく、何かあれば実家に戻る風潮がある。

 

 そこには、義父母による過保護や過干渉があり、それが原因で、娘の精神的自立を妨げ、「母子依存」や「実家依存」を助長していると言わざるを得ない。さらには、気づかないうちに、義父母が、娘夫婦の家庭を破壊しているのである。娘婿からしたら、たまったものではない。

 

 親であれば、誰であれ、「自分の子供が可愛い」と思うのは、当然である。子供を「可愛い」と思えない親は、親である資格はないだろう。しかし、娘が結婚してからは、娘の自立を促し、娘夫婦の自立した生活を願うことが義父母の役目ではないだろうか。いちいち、娘と娘婿の喧嘩に首を突っ込むのも控えるべきである。

 

 私は、ある時、義母に対して、「夫婦のことは、夫婦で話し合って決めさせてください。妻と義母で勝手に決めないでください。もっと、夫婦に自立した生活をさせてください」と、直言したことがある。返って来た言葉は、「私のことが邪魔だって言うんですか?」と。私は呆れて言葉を失った。自分の娘を過保護に扱うあまり、私や子供(義母からは孫)の生活は置き去りにされ、子供が幼稚園に行けない日々が続いた。毒親の典型である。釈尊の説話に出てくる、鬼子母神(自分の子供をかわいがるあまり、多くの人の子供を食い殺した説話)」そのものである。

 

 どうか、義父母の皆さんは、娘の幸せを長い目で見て、広い心で見守っていただきたい。娘夫婦の幸せを願っていただきたい。それができないのであれば、娘さんは義父母の手もとに置いてといて、結婚させない方が良いでしょう。

 

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「別居親」が囚人より面会頻度が少ないのは異常だ

 SNSを見ていたら、「「別居親」が「囚人」より面会頻度が少ない」と、疑問を呈する声が出ていた。「別居親」と「犯罪者」を同列に取り上げたくないが、これは、裁判所による怠慢であり、不当であり、異常だと、私は思っている。


<服役中の囚人の場合>

 ①面会できる曜日は原則として平日のみ。面会の時間制限は原則として30分以上と決められている。

 ②どの受刑者でも最低月2回は面会をすることができるとされており、受刑者によっては月2回よりも多くの面会回数が許されている。最も優遇されている受刑者であれば、月7回以上の面会を許されている。


<別居親の子供との面会交流の場合>

 ①同居親の意向が強い。同居親が会えないと言えば、会うことができない。裁判所は黙認している。

 ②裁判所は、子供との面会交流を、「月1回・2時間程度」を相場としている。
 

 これを見ただけで、明らかに違和感を覚える。いかに、裁判所が世間とかけ離れた思考を持ち合わせているのか、わかるだろう。

 

 過去の判例では、監護者・親権者を定める考慮要素として、①主たる監護者、②監護の継続性、③監護態勢・監護環境、④監護能力・適格性、⑤監護開始の違法性、⑥子の意思(子が15歳以上)、⑦きょうだい不分離、⑧面会交流の許容性の8点が挙げられている。

 

 考慮要素から考えると、「同居親の意向が強い。同居親が会えないと言えば、会うことができない。」というのは、明らかに、面会交流の許容性に欠けた行動であり、監護者・親権者として不適格であることは、明らかである。しかし、裁判所の実態は、「監護の継続性」つまり、監護実績を重視し、「面会交流の許容性」を見ていない。

 

 裁判所は、「子の福祉」、「子の最善の利益」を真剣に考えているのだろうか?考えているのであれば、個々の事案を考慮し、子供の適切な面会交流を検討すべきである。こうしたことを考えられないのであれば、法曹者としての資格はないと言えるだろう。

 

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家庭裁判所こそ、「裁判員制度」の導入を!

 本日は、少し実体験も交えて、主張したいと考えている。

 

 日本では、2004年に「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律(通称:裁判員法)」が国会で成立し、2009年より施行された。現在、刑事裁判において「裁判員裁判」という制度は定着し、一定の成果が出ている。

 

 この裁判員法が施行された目的は、「国民の司法参加により市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映する」ことで、「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上を図る」とある。つまり、裁判官の判断が、世間の常識からかけ離れたものであり、そのことで、国民の信頼を失墜していたという背景があったのだ。

 

 これは、刑事事件に限らず、民事事件や家事事件においても、同様である。裁判所を利用したことがある方は、誰もが、裁判所には“正義がない”と感じているだろう。私もその一人である。なぜならば、裁判官に、事実を訴えても、はじめから「結論ありき」で、当事者の話は「聞いているフリ」で、何も聞いていない、聞くつもりもないというのが現実だ。

 

 私自身、現在、離婚事件において、妻から一方的な調停・裁判を起こされ、現在も係争中である。夫婦の事件を担当する女性裁判官は、初めて会った時、「困ったことがあったら、何でも言ってください。そのために、時間をとりますよ」と私に言ってきた。私も緊張していたせいか、裁判官も人情味があると思い、安堵の思いになった。だが、現実は、そうではなかった。

 

 裁判において、裁判官は「私に対する法定事由がない」ことを認めながらも、ずっと和解離婚を迫って来た。妻の主張は、事実と異なる主張ばかりで、私の言動を切り貼りし、記憶の錯誤が目立つ主張ばかりである。それに対して、「事実経過」を詳細に書面にまとめて、「請求棄却」を何度も主張してきた。それは、法定事由がないし、理由がないのだから、当事者として至極、当然のことである。

 

 しかし、裁判官には、それが通じないのだ。ある時、裁判開廷と共に入場した裁判官は、始めから不機嫌であった。理由はわからない。そして、裁判官の言動も始めから喧嘩腰であった。話の中で、私が裁判官の発言に疑問を持ち、「裁判所は窃盗を容認するのか」と疑問を呈したところ、裁判官から、「裁判所にそんなことを聞くんじゃない。」とヒステリックに逆上された。これまでの私に対する態度を、180度を豹変させて、怒鳴りちらしてきたのである。

 さらに、子供の親権についての考えを問われたので、書面にて主張したが、裁判官は、理由もなく、「母親」と言った。私は「妻の実家が子供を育てられる環境ではない。裁判官も人の親ですよね?こんな環境で子供がまともに育つと思いますか?」と疑問を呈したところ、さらに逆上した。

 これらのことから、裁判官という人間は、「なぜ、私の言うことを聞かないのか」と、はじめから結論ありきで、自分の思惑通りに物事を進めたいという、非常に我儘で、傲慢な心を感じた。この時、裁判所には正義はないと確信した。

 

 私は、調停や裁判を経験する前、「裁判所というところは、人を公平に、公正に裁くところで、社会正義を実現する場である」と、漠然と思っていたが、それは、もろくも崩れ去った。非常に残念であり、無念に思った。

 

 私はこのような衝撃的な経験をした。これまでに、家事事件において殺傷事件が多いと聞く。これを肯定するつもりは全くない。ただし、こういった事件を引き起こす理由の1つには、「裁判官の姿勢」に問題があると考えざるを得ない。  

 

 したがって、家事事件や民事事件においても、裁判員制度を導入すべきである。SNSでも、私と同様に、裁判官に酷い扱いを受けた方を何人も見て来た。裁判官も己の考えが、いかに世間の常識とかけ離れたものであるのか認識し、考えを検証すべきである。そうでなければ、本当に苦しんでいる方が報われる時代は来ない。裁判所が国民から信頼を取り戻すことは、永遠にできないであろう。

 

 誰もが幸福な世の中になるために。